娯楽も変遷していくに違いない

世間はコロナ騒ぎに翻弄されて、ある種の「引きこもり」のような生活スタイルを余儀なくされているかもしれない。

そこで生じる稼ぎ、飯を食っていく、糊口をしのぐという問題はさておき。

もともと、引きこもり気質のあった人間たちにとっては、おそらく、今回の騒ぎをよそに、「何を今更」という感じではないか。

筆者もどちらかと言えば引きこもり、外こもり気質は十分にあって、飯を食うために仕方がなく会社員をしているようなところがある。条件さえ揃えばさっさと会社を辞めて隠遁生活にすぐにでも突入できる心の準備は出来ている。

家から一歩も出なくてもデリバリーで食事は配達されてくる世の中である。運動不足になるというが、もともと定期的に運動などしない。身体を動かすことの大切さは身に染みているが、怠惰であるし、運動を継続させるための仕組みが無いので長続きしない。

となると、家で出来る一人遊びというものを、世の中の動きがどうなろうと変わらず続けていくということになってくる。

唯、自分の場合、屋外でも遊ぶことがあった。街を気ままにぶらつくことである。バンコクの街を買い物して歩く。否、安価な按摩の店を探して、半日以上を探検に費やすこともあった。

そういう遊びが出来なくなった。落胆はしつつも、世間の状態というのが早く元どおりになることを願うばかりだった。

現実の世界での娯楽が楽しめなくなっている以上、仮想現実の世界に浸かるしか無いのかもしれない。

もちろん、この世の大抵の娯楽というものは仮想現実の世界でも提供されてはいるのだが、いざ、現実の世界で本物が入手できないとなった時に、仮想現実での楽しみが半減されてしまうという問題が生じてきてしまう。

これはあくまで感覚の問題なのだが。

「お金があったら、これを現実に楽しめる。お金が無いからとりあえずゲームで我慢する」

こういう前提が崩れるわけである。今の状況だと、お金があっても現実の世界でそれは手に入らないのだ。

もしかしたら、将来的に欲しかった、あるいは過去に手に入れていたそれが、相当程度長期的に、あるいは永遠に手に入らないかもしれない。

そんなネガティブな絶望感、あるいは不安感みたいなものがある。

それでも仮想現実の世界の楽しみを追求し続けることが出来るのだろうか。

世間のあらゆる人々の属性やら、収入の多寡に関わらず、ほぼほぼ全員が仮想現実で我慢しなければならなくなったとしたら。

仮想現実の趣味というのが、一部の好事家たちの占有物ではなくなってしまう。

そうなると、コアな人たちで不満を感じるだろうなと思う。マニアックだったからこそ、世間に認められないような趣味だったからこそ、精神的な愉悦を感じるような、ちょっと倒錯した喜びみたいなのが、マニアの趣味にはあるからだ。