東南アジアにいるとたまにふと思うことがある。それは、「人間は成長しなければいけないのか?」ということであった。
日本の企業の職場では、「成長」という言葉が割とよく好んで使われているようだ。とくに規模が小さな中小企業、ベンチャー企業においては、「成長しない者は会社に存在する資格無し!」みたいな風潮さえあったりもする。
そういうイデオロギーに対してあまり疑いを挟まない人が多い。いや、健全な批判精神を持っていたとしても、それを会社では出さないから(建前と本音を使い分けているだろう)、一見すると会社員というのは金太郎飴のような集団に見えるのである。
とくに、女性に多いのは真面目な人である。企業の経済活動にとって優秀な歯車かもしれないが、とにかく真面目である。しかし、物事を多面的に捉えたり、異なる価値観を受け入れたりすることが不得意なのだろうと思われる人が多いのだ。
だからといっては何だが、筆者のような、ならず者というか、怠け者がそういった真面目な女性と一緒に働いたりすると、恐ろしい敵意でもって迎えられることになる。ここで、男芸者ぶりを発揮して、そういう真面目な女性をも籠絡するようなスキルがあればいいのだが、残念なことに筆者にはそうした人たらしの技術も不足していたのだった。
話が大分横道にそれてしまった。成長云々のことを言おうとしていたのだった。
そうなのだ。日本では当たり前と思われている成長の概念が、東南アジアの人々を観察していると、一切それが欠落しているように思われてならないときがある。
たとえば、それはバイクタクシーの運転手などである。彼らが暇つぶしなのか知らないが、仲間の運転手たちと駄弁っている姿や、ぐうぐうと昼寝をしている姿を見て、彼らにはおそらく日本のビジネスマンたちが持っているのと同程度の成長という意識は存在しないに違いない。
彼らは50歳、60歳になっても別に職業人として成長する必要は無いのである。また、社会からもそうした要請は無いのである。サラリーは安いかもしれないが、上司や雇い主からワーワーと文句を言われる事も無いだろう。スキルアップのための勉強も必要無いだろう。20歳のときにバイクタクシーの仕事を始めたときに、その仕事がもし気に入ったら、老年になるまでずっと、職業人としての内面的成長を遂げないままで良いのである。
だから、東南アジアにいる男達というのは、ストレスが無さそうで、幸せそうな顔をしているのかもしれないと想像してみる。
翻って、日本人というのはわざわざ東南アジアに逃れて来たとしても、雇用主からの仕事へのプレッシャーに常に晒されて、戦々恐々とした毎日を送らねばならない。日本という病、宿痾から逃れて来たとしても、海外でも日本が自分の身に付いて回るのである。
というような事を未だに考えるのだが、これは自分がまだまだ青臭く、思考がオッサン化していない証拠だと思える。オッサンになるともっと人生が楽になるというようなことを、かつての職場の年上の同僚から聞いたことがあった。とはいえ、余計なことを考えなくなるのはオッサンの特権かもしれないが、其の所為で、人間関係の機微に無頓着な、いわゆる性的嫌がらせのような発言を連発してしまう痛いオッサンになるのもどうかと思う。人間としてのバランス感覚を保ちながら、自分もオッサンにならなければと思っている。結句、人間が人間のいる集団の中で社会生活を送る以上、年相応の演技が必要になるということなのだろう。
【追記】
成長という言葉が気になっている。思うに、成長というキーワードはブラック企業を語る上でなくてはならないものかもしれない。たとえば、薄給激務であっても、「ウチの会社で働けば、他社で働くよりも2倍のスピードで成長できる。(だから、薄給激務には目をつぶって、がむしゃらに働け!)」という論法につながることが多い。()内を実際に上司が言うことは無いが、薄給激務になっている会社でまかり通るロジックはそんなところであろう。成長というキーワードはやりがい搾取にもつながることだ。
この辺りの企業のイデオロギーというのは宗教的イデオロギーと似ている。現在、筆者が勤めている企業でも、がむしゃらに働くタイプのモーレツ社員は、自分の信念を絶対に曲げない、原理主義的な怖さをもった人だ。価値観の多様性、思想の自由に関して、それが働き方の問題に及んだ場合、自らのモーレツぶりを一切反省することは無いだろう。日本人というのは特定の宗教に帰依している人が少ないので、企業のイデオロギーが個人の宗教の代わりのようになってしまっている。
生き方、働き方の自由を求めて東南アジアにまで出て来ても、日本人のいる企業に入ってしまえば、日本的な価値観ともうまく共存していかねばならない。面倒くさいことだ。