愚痴について

一般的に、他人の愚痴というのは聞きたく無いものだと言われる。聞かされる方はうんざりするものだと。

私はそのことについて、自分なりのスタンスとしては、「別に愚痴を聞いてあげたっていいじゃないか、それに、愚痴にこそ人生のスパイスが詰まっているもんだろうよ」ぐらいに寛容に構えていた。

今でもその基本は変わらない。愚痴って文学の源じゃないかと思っている。とくに私小説など読んだら愚痴のオンパレードではないか。それを単なる愚痴にとどめずに文学にまで昇華させているところに文豪の文豪たる所以があるんだろうけど。

そんな暢気なことを考えていたが、かくいう私も他人の愚痴を聞くのはしんどいものだなと思った。かつてタイで働いていた頃、友人の大学時代の友人という人とまあ友人になったわけだが。その人はとある日系メーカーに勤めていたのだが、どうやら日本人駐在員やらタイ人従業員やらとうまくいかずに、私に対して愚痴をこぼしてくるのだった。

最初は興味深く聞いてはいたものの、だんだんと聞くのも辛くなって来た。いや、興味が湧かなくなってしまった。

それに、「そんなに辛いなら転職したら?」とアドバイスをしたにも関わらず、そういう他人のアドバイスには一切耳を傾ける人ではないようだった。(まあ、他人に言われてひょいひょいと転職できるような人はあまりいないだろうが)

他人の愚痴は聞く方はどうしようもできないものだ。愚痴を言っている人間が抱えている問題に直接的に介入出来ないことが殆どだからだ。なおかつ、愚痴を言う人間は他人からのアドバイスや解決案を求めてないという厄介さがついてまわる。

愚痴を聞くのはしんどいことだ。だからこそ他人を愚痴を黙って聞いてあげられる器量を持った人間というのは同性からも異性からも頼りにされ信頼されるであろう。自分にはそれだけの器量はあまり備わってなさそうだ。何しろ、人から何か物事について相談されることがまず無い。そろそろ一人前の男としてのどっしちりとした人格というものを身に付けたいところだが、そういうしっかりしたところが一切無い。軽薄なままである。軽薄さを自覚しているという点を評価したいと思う。