相変わらず薄給の日々が続いていた。外出すれば確実に金を使うのが分かっているので、出来るだけ部屋の中で土日は過ごすようにしていた。といっても、自分が住んでいるアパートには窓がついているのだが、外の景色は見えないし、昼夜が分からないので、部屋にずっといると陰々滅々とした気分になってくる。
地下室で生活をしたらもしかしたらこんな気分になるのかもしれない。朝が来ようと、昼になろうと、ずっと夜みたいなのだった。
先日も記事にしたことだが、貧乏生活というのは面白くも何とも無いということであった。金が無さ過ぎて好きな本が買えなかったりで、ずっとネットばかりやっていたりすると、ああ、これは確実に知的な劣化というのが起こるに違いない。
外国に生活しているので、外国にいるだけでかなり大きな知的な刺激は受けているはずなのだが、目に入って来る物事を、文章化して、それなりに読ませるようなテキストに仕立てて行くには、どうしても日頃からの読書の蓄積が欠かせないと思う。
さて、薄給の話に戻ろうと思うのだが、今日も午後にちょっと買い物に出たついでに近所を歩いたのだが、そこで薄給の惨めさについて真摯に考えた。入社前に薄給になることなど容易に予想出来たことではないか?という反省がまず心に浮かんだ。なぜ、薄給なのが分かっていて、いまの会社に入ってしまったのだろう? 東南アジアにおける日本人としての最低限の暮らしに近い賃金水準を受け入れてしまった。何と言う愚かなことだろうか。
薄給を受け入れてしまう労働者がいるから、ブラック企業経営者が世の中から消えてなくならないのだ。
貧乏暮らしというのが人生にとって何の役に立つのだろうか。単純に金があれば経験できる事柄を、金がなければ経験できないので、その分、人生の豊かさは摩耗してしまうと考える。ひたすらヒルネでもして金を使わないように努力しても、睡眠時間を増やすのは限界がある。あまりに寝すぎていると今度は頭が痛くなったり、体調を崩してしまう。