ハノイ勤務は罰ゲームかもしれない

ハノイというのは日本人の労働者にとっては一種の罰ゲームみたいなところであるかもしれない。それは、駐在員にとっても、現地採用にとっても実質は同じではないかと思っている。駐在員と現地採用には待遇に雲泥の差があったとしても、「何でハノイなんかに、、、。」という思いを内心抱え持っている人も少なく無いはずである。

かくいう筆者としては、最初はハノイ勤務が決まったときにはなるべく前向きに考えようと努力していた。そして、新しく始まったハノイでの暮らしについても出来るだけプラスに物事を捉えようとしていた。

ハノイには冬がある。それも防寒具を身につけなければダメなほどの寒さである。なぜ、日本の寒さを嫌って東南アジアまでやって来たというのに、ハノイでまた寒い思いをしなければならないのか。これも罰ゲーム的な要因の一つと言える。わざわざ日本を飛び出した意味が無い。

それから、ハノイには夜の街の遊蕩に関しては、全くと言って良い程期待出来ないのであった。ベトナム語を身に付けて、ローカルの安い遊郭にチャレンジするのも面白いかもしれないが、果たしてそこまでする程のリターンがあるのかどうかも疑わしい。ハノイは国家的にそうした遊蕩の類を禁じているという話も聞いているし、わざわざ危険を冒すのも馬鹿馬鹿しい気がして来る。

日々の生活に関してだが、街に24時間営業のコンビニが見当たらないのも不便だった。どこかの飲み屋で酒を飲んだ後に、ちょっとジュースでも買うかといって立ち寄れるようなコンビニが無いのだ。夜の街が真っ暗になるのも早い。思考が内向きになり、健全な生活を送らざるを得なくなってくる。

文化というものは得てして、享楽とか、非合法、反社会的なモノから生まれて来ることが多いから、あまりにもお上による締め付けが厳しいようなエリアというものは、文化や芸術の観点からは魅力に乏しいということになる。(ただし、ハノイは街の風景に関して言えば、歴史のある街であることもあって、見ていてそれなりに飽きない。ホーチミンは逆に清濁合わせ飲むというか、享楽のパワーが街のそこかしこに溢れていて、悪人も善人もどちらもひっくるめてパワーが漲っているのだ。)

この罰ゲームをどう自分の中で処理したら良いのか私にはよく分からないでいた。仕事で会う日本人がよく口にするのは、「ハノイなら仕事に集中できますね!」ということなのだが、うーむ、享楽やら放埒やら、アナーキズムを求めて東南アジアに再び渡った身にとっては、自身のビジネスマンとしての成長などどうでも良い事であった。成長という概念が自分の意識の埒外にあることは確かであった。そもそもビジネスマンとして成長することに、人間としてどれだけの価値があるのかが分からない。その他の人間としての徳というのは一切合切が捨象されてしまい、企業戦士としての成果及び成長だけが会社によって評価の対象になってしまう。そうして、企業という組織の歯車としては非常に優秀だが、全人間的な魅力だとか包容力、思想及び哲学などが多いに欠損した人間が出来上がるというわけである。

そうした疑問を抱えつつも、まあ、普段はそんなことを考えている精神的な余裕が無い。また、考えることも馬鹿馬鹿しくなってしまう。たまにこうやって雑考を書き散らしてみるのも悪く無いと思う。

とにかく、私が言いたかったのは、ハノイ暮らしというものを無理矢理前向きに捉えることは無いということだった。冷静に見つめてみれば、面白くも何とも無い土地だし、気候は最悪、大気汚染も酷いものだ。そうやってブツブツ文句を言いながら暮らして行くしかないんだな、と。人生にはそうやって敗北をも甘んじて受け入れるべきときがあるのだと、私はそういう風にハノイ勤務を捉えていた。