今やっている仕事は薄給過ぎるので、給料日前にはほぼ貯金がゼロに近付く。こりゃあ、下手すると餓死するなという危惧さえ持っていた。何でこんなに薄給な会社に入社してしまったのか、今振り返ってみても不思議で仕方が無い。まあ、自分の考えが浅はか過ぎたのであろう。自分自身の中に超人的で、卓越した潜在能力が備わっているという根拠の無い自信を持っていた。薄給で暮らす、貯金など出来ないような暮らしというものがどれほど惨めで、人間の基本的な尊厳を傷つけて、ネガチブな気分にさせるものかということを知らなかったのだ。
薄給であるから当然のことながら会社に対する感謝の念が湧くどころか、恨みと憎しみが沸き上がるばかりである。経営者や管理者層の人たちは何不自由無い暮らしをし、末端の人間は安月給でこき使われるという、醜悪な構図がそこにはあった。そして、自分は搾取される側にいるのだということをはっきりと自覚したのであった。
とにもかくにも、金が無さ過ぎるのであるが、それでも出費を切り詰めて倹約に勤めなければならないと思った。仕事を頑張って結果を出して、会社を儲けさせて給料を上げてもらうという風に考えるのが健全な考え方かもしれない。だが、頑張ったところでブラック企業というものは社員に対して利益を還元しないものである。だから、ボーナスの類にも一切の期待は持てなかった。
まあ、現状も十分に不満足であるし、楽しく無いし、将来にも明るい希望は持てない。
それでも生きなければならない。そういう酷い感情もあわせて経験することが人生の糧になる!などと無理矢理信じ込んでみたりもする。しかしながら、結局、このベトナムという国で金が無いというヒモジイ思いを積み重ねていくと、他人を蹴落としてでも上に這い上がろう、生存競争で勝利しようというさもしい考えに墜するのかもしれない。
いや、そうしたむき出しの資本主義的な全き競争社会というものが、現代のベトナムの魅力なんだよ!と言われれば、なるほどそういうものかもしれないと、現実を受け入れるしかないのだが。
その競争に敗れ、敗残者として、地味だが細々と平安に暮らして行くというようなスタンスはベトナムでは許されないらしいという気がしている。
サバイバルの渦中にいて、本来、人間として持っていたであろう美徳というものをかなぐり捨てなければベトナムの地で生き残れないのだろう。どんどん自己中心的になり、他人の気持ちに対しても鈍感にならなければならないと感じていた。ガサツさが問われる国である。