ベトナムで働き始めたのだが、生活し始めてそこそこもうすでにベトナムという国の厄介さに気が付いてしまっている。
ベトナムというのは修羅の国である。のんびり出来ない。働いている日本人も、ベトナム人も、欧米人も、その他の民族も、誰も彼もがアグレッシブである。
ここでは人間的な優しさや謙虚さをかなぐり捨てて、強く自己主張をし、自分にとって有利な条件が引き出せるように常に身構え、ときには闘争しなければならないのだと悟った。
気安さや、隙をちょっとでも見せれば、連中は図々しくこちらを攻撃してくるし、彼らの言うように応じていたら、金がいくらあっても足りないということになる。
仕事の場だけではない。遊蕩の場においても、チップ攻撃に晒されるのだ。これの対応が実に面倒くさい。マッサージ屋に行っても、「ああ、今回はチップ攻撃はされないだろうな」などと油断していると、最後になって、紙を渡してきて、5ドルか、10ドルかのチップを選べという。
こんなことはタイではありえなかったことだ。
チップを払うことがベトナムでは強制されるので、イライラするのである。チップを払う、払わないは客が決めることだろう。サービスに満足しなければチップを払わなくても良いと思っている。しかし、ベトナムではそうもいかないらしい。強制チップが慣習になってしまっている。
ベトナムに来て、働いて、幾年月が経過したときに、果たしてベトナムを終の住処にしたいなどと思えるくらいの心境の変化が訪れるのだろうか。
救いに思えるのは、ベトナム人は親日の人が多いらしいということだった。自分の実感としてもそう思える。タイ人よりはベトナム人の方が分かりやすいだろう。タイ人というのは基本的に外国人といえば、ファラン崇拝が根強い印象があるし、日本人に対しては好意的に見せかけてはいるが、実際は腹黒く、狡猾な人間が多いように思える。
そこへ行くと、ベトナム人というのは良い人と悪い人がはっきりしていると思う。良い人は非常に高度な日本語も巧みに操るとともに、大変な親日家であったりする。
あくまで自分が暮らしてみて感じた印象である。もちろん、「〇〇人は〇〇だ」などといって物事を一般化してしまう危険性については重々承知の上でのことだ。こういった分析によって、外国人への理解が矮小化してしまうこともあるだろう。
しかし、それを言ってしまうと、他民族について一切語ることが許されなくなってしまう。外国に暮らすことの意味は、日本人と外国人との比較を通して、日本人は何なのか?ということを考えることに意味があると思っている。外国にいて、ローカルの人々とやりあって、実地で考えていくわけだから、まさしく精神的な格闘になる。
こんな面倒くさいことをしなくても、机上や床の上でゴロゴロしながら考えればいいではないかと思う人もいるかもしれない。だが、私はやはり外の世界が好きなのかもしれなかった。本を読むだけで哲学出来る人も世の中にはいるらしいが、結局、私は外の世界に、それも海外に飛び出すことを自分で選んでしまった。無用な苦労なのかもしれないと思いつつ。